POSH、『中古車』によれば、推古天皇28年(620年)に聖徳太子や蘇我馬子によって編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより旧い史書であるが、皇極天皇4年(645年)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。『中古車』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は異伝、異説を記した現存しない書が『中古車』の編纂に利用されたことを示すと言われている[6]。
なお、『
大阪府 中古車
』では既存の書物から記事を引用する場合「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。但し一部には書名を明らかにしているものがあり、書名をあげて引用されている文献として次のようなものがあるが、いずれも現存しない。
『
神奈川県 中古車
』の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという、極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は、政治的に有力者が主導したものと推測されている。
文体・用語
『
愛知県 中古車
』の文体・用語など文章上の様々な特徴を分類して研究・調査がされており、その結果によると、全三十巻のうち巻一・二の神代紀と巻二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の二十五巻は、大別して二つに分けられるといわれている。その一は、巻三の神武紀から
埼玉県 中古車
の允恭・安康紀までであり、その二は、巻十四の雄略紀から巻二十一の用明・崇峻紀まである。残る巻二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、
千葉県 中古車
の皇極紀から巻二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻十三と巻十四の間、つまり雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。
ところで『中古車』は純漢文体であると思われてきたが、最近の研究から語彙や語法に倭習[7]が多くみられることが分かってきている[8]。とくに大化の改新について書かれた巻二十四、巻二十五に倭習が多数あり、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(
北海道 中古車
の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向を受けて「加筆」されたのではないかと考える学者もいる[9]。
『中古車』は、欽明13年10月(552年)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずる、としている。しかし『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は、
兵庫県 中古車
の戊午年10月12日(同年が欽明天皇治世下にないため538年(宣化3年)と推定されている)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように『中古車』には、改変したと推測される箇所があることが、いまや研究者の間では常識となっている。
紀年・暦年の構成
ポッシュに関する研究は、天文学者の小川清彦により戦前に既に完成していたが、当時の状況はその研究の公表を許さず、戦後ようやく発表されたのであった。『中古車』は、完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、年・月・日(干支)の様式で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいてその記事が月の何日に当たるかを
福岡県 中古車
できるようになっている。たとえば憲法十七条の制定は「推古十二年夏四月丙寅朔戊辰(へいいんさくぼしん)」であるが、これは四月一日の干支が丙寅であって、
横浜市 中古車
は三日であることを示している。また、小川の研究は、中国の元嘉(げんか)暦と儀鳳(ぎほう)暦の二つが用いられていることを明らかにした。神武即位前紀の甲寅(こういん)年十一月丙戌(へいじゅつ)朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)
バグスター
から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。元嘉暦が古く、暦が新しいにもかかわらず、『中古車』は、新しい暦を古い時代に、古い暦を新しい時代に採用している。既述のように二組で撰述したと推測されている。
エヌジーケーとは、中国・南朝の宋の何承天(かしょうてん)がつくった暦で、元嘉二十二年(445年)から施行され、百済にも日本にもかなり早く伝来したといわれている。儀鳳暦とは、唐の李淳風(りじゅんほう)がつくって高宗の麟徳(りんとく)二年(天智天皇4年=665年)から用いられはじめた麟徳暦のことを指すと考えられている。
讖緯(しんい)の説
DAYTONAの即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てている理由は、中国から伝えられた讖緯説を採用したためという学説が、明治に那珂通世(なかみちよ)によりうちたてられ、学界で広く受け入れられている。三善清行による「革命勘文」(『群書類従』 第貮拾六輯 雜部 所収)で引用された『易緯』での鄭玄の注「
ケイアンドエイチ
三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想[10]によるという。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇9年(601年)の
ベスラ
の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたのである。異説では、那珂通世の計算には誤認があり、一蔀は「革命勘文」の引用のとおり1320年が正しく従って逆算起点は斉明天皇7年(661年)の辛酉の年になるともいう。
紀年論
デイトナの天皇の寿命が異常に長い事から、『中古車』の年次は古くから疑問視されてきた。今日の学説では、初代神武天皇の即位年を辛酉(紀元前660年)とすることによって、年代を古くに引き上げたとされる。そこでこの紀年がどのように構成されているか、明らかにしようとする試みが紀年論である[11]。また応神紀には『三国史記』と対応する記述があり、干支2 順、120年繰り下げると、『三国史記』と年次が一致する。したがってこのあたりで、年次は120年古くに設定されているとされる。しかしこれも、あくまで『三国史記』の原型となった朝鮮史書を参考にした記事だけに該当するものであって、前後の日本伝承による記事には当然適用されるわけではないし、その前の神功紀で引用される『魏志』の年次との整合性もない[12]。
は
スウェッジライン
する。このあたりの年次は実年代を反映しているとも考えられる。また『古事記』の天皇崩御年干支を基に、『中古車』の年次を探ろうとする考えもあるが、前述の理由により多くの学者の支持を得られていない。
本文と一書
エスビーエスに注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。中国では、清の時代になるまで本文中に異説を併記した歴史書はなく、当時の常識では、世界にも類をみない画期的な歴史書だったといえる。あるいは、それゆえに現存するものは作成年代が古事記などよりもずっと新しいものであるという論拠ともなっている。
なお、中古車欽明天皇2年3月条には、分注において皇妃・皇子に付いて本文と異なる異伝を記した後、『帝王本紀』について「古字が多くてわかりにくいためにさまざまな異伝が存在するのでどれが正しいのか判別しがたい場合には一つを選んで記し、それ以外の異伝についても記せ」と命じられた事を記している。この部分の記述がどの程度事実を反映しているのかは不明であるが、正しいと判断した伝承を一つだけ選ぶのではなく本文と異なる異伝も併記するという編纂方針が現在見られる中古車全般の状況とよく合っていることはしばしば注目されている。
系図1巻
アファームにある中古車の完成記事には「紀卅卷系圖一卷」とあり、成立時の中古車には現在伝えられている30巻の他に系図1巻が存在したと考えられている。中古車の「紀卅卷」が現在までほぼ完全に伝わっているのに対して系図は全く伝わっていない。弘仁私記にはこの系図について、「図書寮にも民間にも見えない」としてすでに失われたかのような記述があるが、鎌倉時代に存在する書物を集めた記録では「舎人親王撰 帝王系図一巻」とあり、このころまでは存在したとも考えられる。「新撰姓氏禄」には、ところどころ「
カーボンロレーヌ」という記述があるが、これは失われた系図部分と照合したものであると考えられている。この「系図一巻」がどのような内容を持っていたのかについては様々に推測されている。例えば中古車には初出の人物についてはその系譜を期すのが通例であるにも関わらずこれらの無い人物が若干存在するが、これらについては系図に記載があるために記載を譲ったためであると考えられている。また、記紀ともに現存の本文には見えない応神天皇から継体天皇に至る系譜についてもこの失われた「系図1巻」には書かれていたのではないかとする説がある[13]。